線香花火

数年前にすい臓がんで亡くなった母親と僕の話です。

資格


仕事をしていると、会社からは、目標達成のために
資格取得をするように指示が出される。

IT系の会社では、よくあることだった。
今の会社に入れたのも資格のお陰だと思っている。

昔、資格試験の勉強をしていると、
おっ母が内容は分からなくても
応援していた。試験日の前日の夜は
とんかつを作ってくれた。

会社の指示に従い、試験勉強をしていると
気になったのか、おっ母が話しかけてくる。

「試験受かりそうか?」
「受かるように勉強してんだよ。」
「しっかりやれ!お前なら出来る。
試験終わったらお母さんに連絡しろ」
「うん、分かったよ。」
「ご飯食べちゃえ。」
「行くよ。」

試験が近いとこんなやり取りが繰り返される。
自分の試験じゃないけど、おっ母は気になるようだ。
試験に合格すると、自分の事にように喜んだ。
受験をして、自分で受かりたいのもあるけど、
おっ母が喜ぶ姿がみたいためでもあった。

僕が試験に受かると、その日は飲めないくせに
ビールの試飲缶を取り出し、飲んでいた。

ほんの二口を飲んだだけで、顔を真っ赤にして
喜んでいた。

「お前はやれば出来るんだ!
お母さん信じてた!」

真っ赤になった顔で、嬉しそうに飲めないビールを
啜っていた。その頃の僕は、おっ母が重篤な病気であることも
たまに忘れてしまい、試験に受かった安堵とビールに
酔っていた。

 

 

 

緊急外来


普段の生活では、病魔も姿を現さず
平和な時間が続いた。

糖尿病の影響で、インスリンの注射を行っていた。
油断をすると、低血糖になり意識朦朧となることはあったが、
鞄にしまった。ブドウ糖を取ることで様態は落ち着いた。
それでも、治らない場合には、車を飛ばし病院に担ぎ込んだ。
しかし、病院について点滴を打ってるいると、体調も安定して
帰ると言い出す始末だった。

土日の緊急外来は込み合っていた。
運び込まれた人の状態で、優先度が付けられるのであろう
いつも早めに医師が対応してくれた。
年齢と脂汗をかいてるおっ母を見て、
早く診察してくれるのだから
感謝しなければならない。

たまに、事故で血だらけの患者が
ストレッチャーで運び込まれるのを
見ていると医療の現場は大変だと思った。
そういった人は優先的に対応していた。

はた目から見て元気そうな人で
追突されて腰が痛いと訴える人には、
「追突されて腰が痛いんですけど」
「後から症状が出るから今日は帰りなさい。」
状態と説明して、帰宅を促す医師に
納得ができないのか、今度は首が痛いと言い出す患者。
なんとしても、自分の状態と病人扱いにしてもらいたい
患者と医師の攻防があった。

一人ひとり症状があり、辛いのは分かるが
優先順位は大事なものだと思った。

処置が終わり、点滴の管を外されたおっ母は、
家に帰る気満々で、医師からは、低血糖の影響なので
帰宅問題なしとのお墨付きをもらい。
僕らは家路についた。

具合が悪くなるのが、家にいる時で
良かったと思った。独りぼっちの時では、
家で倒れて発見が遅くなって、
最悪の事態になっていたかも知れない。

おっ母の携帯を、交換して、
非常時には、ボタンを押せば、
電話で話せなくても、異常を示す事ができる
携帯に機種変更をした。

出来れば、この機能が使われずに済む生活が
望ましが、もしものために準備した。

 

 

 

 

1年


余命1年の宣告を受けてから、
1年が経過した。症状は現れることなく
平和な日々は続いた。

待ち時間の長い病院で、診察を受ける。
後ろに座って、説明を受ける。
先生は、それほど大きくなってないし
しばらく様子を見ましょうとおっ母に説明していた。
おっ母を、待合室で待たせて、先生に聞いた。

「先生、もう1年経ってますけど」
「そうだね。あれおっかしいなぁ、
まぁ、元気なんだからいいじゃない。」

他人事だと思った。
余命宣告ってなんなんだと思った。
円形脱毛まで作って聞いた話なのに・・
これから注意するべき点はないか確認をしたが
明確な回答は無かった。

この時、セカンドオピニオンとかをしていれば
結果は違っていたのかもしれないが、
当時の僕には、発想出来なかった。
今のおっ母をみていると、とても余命宣告受けた
がん患者には見えなかった。

いつまでも、この生活が続くのかと思っていた。

しばらくしないうちに、部署移動となり
ハードな異動先で、仕事が優先されるようになり
おっ母への心配も薄らいでいった。

平日は家に帰る日が減り、週末だけ家に帰るようになり
週末は泥のように眠った。

おっ母は、残業で疲れた僕を気遣うようになり
自分の用事は自分で済ますようになった。
一軒家に住んでいるが、顔を合わす時間は
減っていった。

それでも、土曜の夜は、僕の好きな物を作ってくれた。
土曜の夜に一緒にご飯を食べることが、
その時の僕にできた親孝行だった。

晩ご飯を食べながら、会社での出来事とかを
目を細めて、聞いてるおっ母。
時には、嫌なことがあり、愚痴を垂れると、
一緒に憤慨するおっ母。

「そんな奴には、言ってやればいいんだ!」
「会社なんだから、言えたら苦労しないよ。」

会社勤めしたことが無いおっ母の発想は自由だった。
自分に正直な人だった、怒ってるときは怒り
我慢はしない。親切にするときは、とても親切に
人に接した。

このご時世で、こんなに喜怒哀楽がある人は
珍しいと思った。

そう言えば、テレビを2階で見ていて、
ヤバい泣きそうと思うシーンがあり、
1階に行き同じ物を見ていると、大体号泣していた。

「泣いてやんの~」と茶化すと、
「泣いてねぇ」と返ってきた。

本当に飽きないおっ母だと思った。

 

 

 

通院


毎日の生活で、2週間に一度の通院は、
1か月に1回に代わり、症状もなく安定していた。
土曜の朝から、混雑した病院に並び予約はしていたけど
順番通りいくわけでも無く。人が溢れた待合室で、
ずっと待っていた。

2時間くらいが経ち、呼ばれた。
朝から診察を続ける先生は、少し疲れたように見えた。
おっ母の診察を終えて、個別に話がしたくおっ母を待合室で
待たせていた。
余命1年のことは知られたくなかった。

先生曰く、
「手術や抗がん剤をしていたら、
今みたいな生活は出来なかった。」
「入院したままで、家に帰れることも無かったでしょう。」

先生の説明は、高齢故に体力が持たないため、
普通に生活させるのが一番いいことだと、家族の意思で
抗がん剤とかの治療を行っても、治療が苦しくて
途中でリタイアする患者さんもいるからと、淡々を語っていた。

僕は、そう言われると今の状態が正解だと思ったが、
やっぱり余命1年の現実は厳しいと思った。

昔、おっ母が言っていた事を思い出した。
「お母さんががんになったら、抗がん剤とかはやらない。
そのままで、痛いのだけ無くしてくれりゃいいや。」
「お母さんの友達で、抗がん剤やってたけど、
普段は愚痴も言わない人だけど、辛いって言ってたから、
それでも半年で亡くなったからな。」

先生との話が終わり、会計と処方箋を済まし、
日は上まで登り、車まで移動する僕らを照らした。
帰りにうどんを食べて帰ることになった。

全国展開している、うどんチェーンに行き、
各自好きな天ぷらとかけうどんを頼んだ。

「ここのうどんは腰があって旨いな、値段も安いし。」
「いつも焼き肉だと、お前の財布が多変だからな、
うどんにしといたぞ。」

得意げに笑う、おっ母は旨そうに、うどんを啜った。
おっ母は、金を使わせないように気を使ったのだろう。

家に帰り、インスリンの注射をおっ母がやっていた。
正常に機能しないすい臓のため、食事のたびに注射を打っていた。
高血糖も問題だが、低血糖も意識混濁になり発汗するなどがあった。

がんの症状は、今のところは無いが、
糖尿病や脳溢血等の症状はたまに出た。

その都度、僕の携帯は鳴り
深夜でも病院に駆け込むことは多かった。
大事には至らず、病院での処置により1週間の入院
程度で済んでいた。

がん患者の知り合いもなく、最後がどうなるかも
僕は想像は出来なかった。それでも、何か事が
起きれば、直ぐに病院に駆け込む準備だけは出来ていた。

もう自分で行く病院分も、親の分で元を取ったように
病院に駆け込んだと思う。高齢の親を持つと、60代で経験することが
30~40代で経験することなんだと思った。

当然、一緒にいる時間も短いことなんだなと、
ふと思った。

 

 

 

日常


熱海旅行から帰ってきた。
日々の生活でおっ母を観察していても、
がんの魔の手は無いように見えた。

土曜の通院でも、同席して話を聞いたが、
特に進行もないようなあるようなはっきりしない。
感じの答えが返ってきた。
このままずっと平穏な生活が続くと思った。
病院の帰りに、焼き肉屋によりランチを食べて、
肉の味にご満悦なおっ母だった。
「ここは味がいいなぁ。」
「まぁ、いい値段するしね。ランチだから安いけど」
「帰りに指の体操するか?」
「パチンコ行きたいの?」
「今日は勝ちそうな気がする」
おっ母は、根拠の無い地震に満ち溢れていた。

コンビニのATMで、軍資金を調達し
家からは車で10分程度のパチンコ屋に行った。
僕は開始早々に1万を飲み込まれ、休憩所にある
漫画を読んでいた。
おっ母は、好調なようで、巧そうにたばこを吸っていた。

「お前もう負けたのか?」
「お母さんは、1000円でくるくる回って出たぞ!」
「家に帰るわ、パチンコ終わったら携帯に電話頂戴。
迎えにくるから。」
「分かった、お母さんはやってるぞ。」

家に帰り、テレビを眺めて過ごしていた。
おっ母は何時まで、パチンコをやっているだろうか。

夜の9時くらいに携帯が鳴った。
「もう帰るから迎えに来てくれ」
「分かった、行くよ」

車を店の駐車場に止めようとしたところ、
店の前に誰かが立っていた。
こちらに向かってやってくる。おっ母だった。
キャッシュカードを差し出しながら、
「5万下してきてくれ」
「帰るんじゃないの?」
「全部飲まれたから、取り返す」
完全に騙されたと思った。
苦虫を噛み潰したような顔で、
金を下ろせと迫るおっ母、相当悔しかったのか。
「分かったよ。下してくるよ」

近くのコンビに向かい、再度軍資金を用意し、
店に戻った。軍資金を手にすると、煌々と光る店内に
戻っていった。

また家に帰り、電話をまった23時ごろに
電話が鳴り迎えに行くことになった。

「今日は最初の飲まれたけど、6万になった。
最初出て、全部飲まれて、1万使って取り返した」
今日の成績を満足そうに話していた。

陽気に話すおっ母を隣に乗せながら、
僕は家路を急いだ。

 

 

 

熱海旅行


病院から退院したおっ母は、すこぶる元気だった。
趣味のパチンコに勤しみ、好きなものを食べ。
よくしゃべりよく笑った。余命宣告された人間なのか?
と疑問に思うくらい元気だった。
僕は、2週間に1回の通院も付き添い、先生に症状の確認をした。

やはり手術はしないで、様子見で本人に好きな事をさせるのが、
一番との回答をされた。
昔、がん患者さんの家族のブログを見て、こんな事が書いてあった。
最初に医者で、方向性が決まると、今だから思うけど、
その通りだと思った。

治療をしたくても出来ない家族。医者に見放された家族など。
また治療したことにより患者の負担になり、後悔をする家族。

色々な家族の話を見ていた。
僕は、当時500円ほどの円形脱毛が起きて、
おっ母の余命宣告が相当ストレスになっていたと思う。

それでも、夏休みには行きたい場所を聞いて、
一緒に旅行やらに出かけた。
本当は、北海道とか連れて行ってあげたかったけど、
飛行機が嫌いなおっ母は、首を縦には振らなかった。

結局は、新婚旅行で出かけた熱海に行きたいと言ったので
熱海まで出かけた。

メイン通りを車で走ったが、街は少し寂しげな感じであった。
おっ母は車内から街並みを見て話しだした。
「昔は人だらけで、物凄く混んでたんだ。」
懐かしそうに話していた。
「ちょっとその辺降りて、お昼食べようよ。
ご馳走するよ。」

商店街を歩きながら、飲食店を探した。
魚介系が好きなおっ母が喜びそうな店を探した。

海鮮丼が売りのお店に入り、二人で店おすすめの
海鮮丼を食べた。美味しそうに昼食を食べるおっ母だが、
料金の高さに文句を言ってた。本当に余命がある人には、
見えなかった。

それから、車に戻り本日の宿へ向かった。
部屋からは、青い海が見えて景色は良かった。
水平線が続く海辺を眺めていた。

時間になり夕食を食べに、食堂へ向かった。
隣の席の老夫婦があいさつをしてきた。
初老の奥さんは、羨ましそうに話し出した。
「優しいお孫さんですね。一緒に旅行なんて」
おっ母は、得意そうに答えた。
「孫じゃないよ、息子だよ。夏休みだから旅行に行こう。
って言ってくれたんだよ。」
「あら、私ったら、でもいい息子さんよね。
うちの息子なんか、年末も寄り付かないですよ。」
おっ母は、気分が良くなかったのか、
息子の自慢を始めた。
「うちの息子は、具合が悪いと直ぐに
病院に連れってくれるんだよ。」
聞いてるこっちは、気恥ずかしかった。
おっ母が、おばあちゃんに間違われることは、
よくあった。

おっ母が42歳のときに、帝王切開で出てきたが、
僕だった。
今ほど、医療も発達してない時代には、
それ相応の覚悟が必要だったと思う。
昔の僕は、自分の親が年を取っていることが
恥ずかしかった。小学校の授業参観とかでは、
若くて美人なお母さんを羨ましがったものだった。

食事が終わり、部屋にもどり、僕は晩酌の準備をしていた。
缶ビールと乾きものを並べていた。
ほどなくして、おっ母はいびきをかきながら寝ていた。
少し酔っぱらった僕もそのまま寝た。

翌日は、朝食を食べ市場に行ってお土産を買い
高速道路を流しながら、家路についた。

家に着いた、おっ母は開口一番、
「あー、やっぱ家が一番だ!」
思わず、突っ込みを入れた。
「せっかく旅行につれってたのに、なんじゃそれ!
つか、もう寝な疲れたでしょ?」
「やす、ありがとう」

熱海旅行は終わり、夏休みももうすぐ終わる。

 

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おっ母とまだ小さい僕

 

 

はじまり

 


それはまるで、暗闇を照らす小さな希望。
身を削りながら、燃える小さな光だった。
ちりちり、ぱちぱち燃える。
儚く燃える、落ちないように消えないように、
手元を照らす線香花火。

この話は、親を呼び寄せて一緒に暮らし、
ほんの数年間の出来事と、最後は、病院で
眠りについた母親の話です。

小さい時の思い出話は割愛して、
僕が中年期になった所から、
話が始まります。
その当時の僕は、仕事も順調で調子に乗っていたのか
家賃を払うことが、馬鹿らしく思うようになっていた。

折角お金を払うのだから、自分の資産が欲しいと思い。
週末には、不動産屋に足を運び。中古物件を見ていた。
しかし、これといった物件が見つからず、
新築を考え始めていた。
その時、別で暮らしてる親も呼ぼうと
二世帯住宅にしようと考え始めてた。
方向性が決まれば、決めるのは早かった。
郊外の土地を決めて、住宅メーカーを決めて、
図面を起こしてもらった。
親には、驚かそうと思い。
図面が完成するまでは、内緒にしていた。

居間で、寛いでいる親に、話しかけた。
「おっ母、家建てるから一緒に住まない?」
おっ母は少し困った顔をして、こう返してきた。
「自分のために家建てな、お母さんは団地いいから」
「もう図面も引いてあるんだよ。見てみてよ。」
「お金だって掛かるだろ。」
「なんとかやり繰りできそうだし、大丈夫だよ。」
そんなキャッチボールを繰り返して、おっ母の承諾を得た。

それからしばらくして、住宅メーカーでの打合せで、
おっ母を同席させた。
住宅メーカーの営業マンは、恭しくおっ母を案内した。
「優しい息子さんですね。」
おっ母は、誇らしげに、軽快に話し出した。
「昔から、息子は優しいだ。」
色々語っていたが、詳細までは忘れてしまった。

色々なことが決まり、着工し順調に家が完成した。
引っ越しは、年末に夜逃げにように慌ただしく進んだ。

新居での生活は、駅から離れて不便さはあったが、
庭もあり、休みの日にバーベキューをやったりして
家族の時間も充実していた。

それから数年が立ち、少し離れた総合病院で
おっ母は入院した。おっ母は電話で、
「なんかお前に話があるみたいだ。」
僕はなんの事か分からず症状の説明くらいに考えていた。

神経質な先生は、デスクに向けたまま、
おっ母の状態と告げた。

「すい臓がんで、余命は1年。
手術をすると返って、寿命を縮めることになる。
すい臓を取ると寝たきりになる可能性があるので
本人の好きなようにやらせる。」

淡々とした口調だった。
何か質問をしないといけないのだけど、
一言だけしか出なかった。
「なんとかなりませんか?」

先生は少し面倒そうに、話始めた。
「すい臓に、胆汁がたまっているので、
投薬でこの胆汁を出すくらいしか出来ないね。」

その話を聞いたあと、おっ母の病室に向かった。
病室で話すのが、適当では無いと思った僕は、
車の中で、たばこを吸うのを理由に、おっ母と
車まで向かった。

車内で、たばこをふかし、僕の顔を覗き込むおっ母に
話始めた。
「すい臓になんか出来てるけど、
悪性か良性か分かんないんだって。
無理に手術すると寝たきりになるかもって
先生言ってたよ。」
「がんじゃないのか?」
「はっきり分からないみたい。来週退院していいって。
通院で様子見ましょうだってさ。」
「退院出来るのか、たばこくれ。」
おっ母は、僕からたばこを貰うと、
旨そうにたばこを吸った。

結局、本当のことは言えなかった。